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​HISTORY

スカンジナビア号 エピソード

​伊豆箱根鉄道株式会社の昭和45年「フローティングホテル スカンジナビア」のオープン記念社誌発行に際しヤナセ 自動車株式会社 梁瀬次郎会長の寄稿です。

―連載寄稿- 

株式会社ヤナセ創立85周年、梁瀬会長勤続60周年記念

ヤナセ八十五年の歩み⑰

―第十七回「ステラポラリス」―

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壮大な富士を背にした純白の麗姿は駿河湾の風物詩となった。

フランク柳原君

 

 昭和三十九年一月に上陸した「轍」三巻で私は、戦後アメリカで教育を受け帰国後活躍されている人々の中でも、特に印象の強いフランク柳原君の思い出について述べてが、ここで、もう少し詳しく彼のことと、私と彼が力を合わせて輸入した「ステラポラリス」という船について触れてみたい。

 フランク柳原君のような、面白いと言っては失礼かもしれないが、勇猛果敢でしかも実行力豊かな、そして得も言われぬ人間的魅力を持った青年は今後とも日本には現れないという気がする。

 ある時、フランク夫人の妹さんのご主人にあたる柏木さんと、フランク柳原君の思い出話をしたことがあった。

 柏木さんも、彼については数々の思い出があったらしいが、今となっては、あれほど面白い人はいなかったということで、私とまったく意見が一致した。

 フランクは中学時代に暁星で学び、朝日新聞社が募集した留学生としてサンフランシスコに渡り、現地のハイスクールを卒業した後、ニューヨークのビジネススクールで経営について勉強した。

 フランク柳原君はニューヨークのビジネススクールを卒業後、日本に帰国して、一時はフィギュアスケートに熱中して、カリフォルニア・ペア・ダンシングフィギュアスケートの部門で、優勝したこともあったそうだが、晩年の彼の体つきからは、フィギュアスケートの選手をしていたことを想像することが難しかった。多分、若いころはもっとスマートであったのだろう。

 その当時、彼の母君が四谷と麹町で日本旅館を経営されていたが、彼は帰国するとそこからほど近い四谷のお堀端に「フランクス」というステーキハウスを開いた。

 この当時はまだ東京の街に本格的なステーキハウスがなかったので、この店は非常に繁盛し、当時、日本で絶大な人気のあった石原裕次郎、長嶋茂雄両氏と義兄弟となったりするなど、この頃が彼にとって最も華やかな時代であったと思う。

 このビルは現在も残っており、私は近くを通るたびに彼のことを思い出す。

彼の商法

 

 フランクの仕事に対する熱意と努力に私は敬意を表するものであるが、これは実際にあったかどうかわからず、一つの伝説として語られていることである。ステーキハウス「フランクス」で当時のサンケイ新聞の社長の水野成夫さんが食事をされていた時、ソースを靴の上に一滴落とされた。その時、どこかで見ていたフランクが飛んできて、自分の胸のハンカチで「社長申し訳ございません、お拭きします」と言ってその靴を拭いたのを、吉田内閣当時、財界四天王の一人と言われた水野氏は、黙ってじっと見下ろされていたが、、このフランクという男はなかなか見どころのある面白い奴だと、以後彼を大変かわいがったという話がある。

 その後、彼は水野社長に紹介されて東京の五島昇社長に接近し、「東急マリーン」というモーターボートの会社を設立し、さらに東急観光も設立し、そこにアメリカのハイスクール時代に同じ下宿に住み、共に学び、遊んだ友人である蒲生隆、田中淑郎、新井公民の三君を呼び、共同で経営にあたったのである。

 同時に彼は五島社長にゴルフ場の建設をすすめ、神奈川県茅ケ崎市に、今日でも日本一と言われるスリーハンドレット・ゴルフクラブを完成させたのである。彼はこのゴルフクラブに三百人に限った本当のリミテッドの一流メンバーを集めることに成功した。

 その後フランクはステーキハウスをビルの建築と同時に占めて、水野氏の号令によって琵琶湖近くの大津の山に「サンケイバレー」というスキー場をオープンした。

 このスキー場は、スキーヤーを頂上までゴンドラではなくエスカレーターで運ぶという変わったアイデアが取り入れられていた。

 彼は、水野氏から全面的に経営を任され、相当の好成績を上げていたようである。

 その当時、渡した大阪へ出張すると、サンケイバレーの山の中から急いで出てきて、一緒に大阪で食事をしたり、ホテルの部屋で彼の将来の夢も物語を聞かされたりしたものである。彼は当時、超一流といわれる財界人の水野成夫さん、堀田昭三さん等のお偉方がヨーロッパへ旅行されるとき、案内役としてお供をし、旅行中に彼独特の笑顔とまめなサービスで献身的にお仕えしたことで、財界に顔が売れ皆さんから、重宝がられ、彼の存在が大いに認められるようになったのである

 その後、サンケイバレーが名鉄に譲渡されたので、フランクは自分のスタッフを連れて東京に戻ってきた。

 東京で彼は西武の堤義明社長の苗場スキー場経営のお手伝いをしていたこともあった。そこでも世界選手権大会を開催するなど、精力的イ活動していたが、その頃、彼が六本木にオープンした「ラストラーダ」というイタリア料理のレストランも彼のアイディアらしく、店内には凝った仕掛けがされ、味もなかなかおいしく、私はよりフランクとこの店で夜遅くまで話し込んだものである。

その当時も彼のスキー熱は非常に強く、フジタ工業の藤田一暁社長に進言して、蔵王にいわゆるコンドミニアムとホテルを一緒にしたような「蔵王コンドテル」を建てた。私が戦後まもなくまだ秀和さんも森ビルさんもない時代に、目黒に自動車のガレージとアパートを一緒にした「モーパート」というものを建てたのであるがこの「コンドテル」という名称は私の「モーパート」からヒントを得たものと思われる。

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ステラポラリス号の買い付け

 

私とフランク榊原君が一緒に仕事をしたのは「ステラポラリス」という船の買い付けであった。

このステラポラリス号は、クルージングヨットとしてギリシアの大金持ちのオナシスのヨットやオランダ国王のヨットと並び称された、スウェーデン船籍のヨーロッパでは名の知れた豪華ヨットであった。

ヨットとっても五千トンの巨体には百室と大食堂、ライブラリー、リビングルーム、プール、娯楽室などを備え、ギリシアのアテネから出発し、地中海を巡航し、コペンハーゲンを経てオスロまで、一人約100万円の料金でクルージングするという形で就航しており、客の大半はアメリカの金持ちのお年寄りであった。

フランクの考えでは、これから日本でホテルを建て得ようとしてもコストがかかるので、これを償却するためには宿泊料が非常に高くなってしまう。そこで、ヨーロッパの古い、そろそろ寿命の終わりそうな豪華ヨットを買って、これを海辺に停泊させて、レストランとホテルにすれば必ず利益が出るであろう、というものであった。

このアイデアはなかなか面白いので、私も一度この船をぜひ見たいと思い、さっそくフランクと一緒にコペンハーゲンに飛び、ちょうどアテネから着いて、停泊しているステラポラリスを見たのであるが、真っ白い船体の実に美しい船であった。

私はこのステラポラリスがすっかり気に入ってしまい、ぜひこれを購入したいと思ったが、日本のどこにこれを置くかが問題となった。

東京に帰って、この道には一番力のある西武の堤義明さんに相談すると、堤さんも実物を見たいということになり、再び建築家の黒川紀章さんご夫妻も一緒にヨーロッパに飛んだ。黒川さんも大変面白そうだという意見を述べられ、堤社長も乗り気になられ、私はフランクと共に、この船の購入の交渉のためにコペンハーゲンから水中翼船に乗ってスウェーデンのマルモにある、ステラポラリスを所有しているクリッパーラインの本社を訪問した。1969年(昭和44年)8月28日であったと記憶している。

このクリッパーラインのオーナーは、ミスターハンセンという

実見立派な紳士であった。ハンセン氏は美術品と書籍の収集家

として知られた人であり、厳重な保管設備がほどこされた

クリッパーライン本社の社長室には素晴らしいコレクションが

陳列されていた。

この交渉の時、ちょうどステラポラリスはコペンハーゲンに停泊中で、

先客が全員上率して観光に出かけている間を見計らって、

ハンセン社長が船の食堂に我々を昼食に招待してくださった。

北欧独特のビュッフェスタイルの食事は大変に美味しかったのが

今でも記憶に残っている。

食事中も交渉の話し合いが続けられたが、私はこの船を買って

金儲けをするのが目的ではない。この歴史ある船を数多くの

日本人に見せて、北欧の文化を日本に紹介したいのだと力説した。

当時丁度、アメリカのテンセントストアとして世界的に有名な「ウールワース」の女性オーナーのバーバラ女子がこのステラポラリスに目をつけ、300万ドルで買いたいというオファーがハンセン社長のもとになされており、我々はそんな高い値段ではとても採算が合わないので交渉は難航していた。

昼食が終わり、コーヒーが出された頃、七十歳を過ぎたハンセン社長が立ち上がってピアノの前に行かれ、いきなり弾き始めたのであるが、これが実に楽しそうで素晴らしかった。私も何もせずにじっとしているわけにはいかない雰囲気になってきた。

そこでハンセン社長の演奏が終わると、今度は私がピアノに向かい、丁度その頃「上を向いて歩こう」という曲が外国で「スキヤキソング」という名でヒットし、多少知られるようになっていたので、下手ながら自己流ながらこの曲を弾き、私に同行していた当社の歌自慢の秋口君(現ウエスタンコーポレーション顧問)が歌ったところ、ハンセン社長は大変喜ばれて、「日本人にもこんなに楽しくピアノが弾けて歌が歌えるひとがいるのか」と言って私の隣に座って一緒になって引き始めたのである。

すっかりムードが和やかになってきたところで、スキヤキソングの最後のフレーズを弾きながら「ミスターハンセン、百万ドルで売ってください!」と一気に叫んだところ、ハンセン社長もつられるように「O・K !」と言われ、この一瞬で三百万ドルもの値がついていた船を三分の一で入手してしまったのであった。私のピアノは全くの自己流であるが、子供のころから音楽が好きで、レコードを聴くと、すぐその曲をピアノで弾いて楽しみながら覚えていた。の

青年会議所やYPOの集まりで、私は若い経営者諸君に、「趣味や道楽を持つなら世界中の誰にでも通用するものにしなさい。ドメスティックな、日本だけしか通用しない清元や小唄などもそれで結構だが、ぜひ国際的に通用する趣味を持ちなさい」と強く訴えているのはこんな経験があるからである。

契約は無事完了し、フランクはその船に乗って日本まで回航することになった。

この回航に当たっては中村汽船の中村公三社長に大変お世話になった。

私は、一足先に日本に着き、三浦半島の沖までモーターボートでステラポラリスを迎えたのであるが、はるか沖合に真っ白な、美しい船体が姿を現したときは、思わず皆で万歳を叫んだのであった。

ステラポラリスの利用法について我々がまず考えたのが、ちょう当時は大阪万博の前であったので、これを大阪湾に停泊させて、万博の期間中、外国から来る若い人々に安い宿泊料金でホテルとして提供してはどうかというものであった。

早速、私は大阪へ行き、当時の大阪府知事の佐藤義詮さんにお目にかかりお話をしたのであるが、大阪湾は狭くて船舶の渡航に支障をきたすということで、結局この話は実現しなかった。

ていただき、西伊豆海岸の三津浜に固定して、ホテルとして営業することになった。

現在でも、三津浜に行くと「スカンジナビアン」という名でホテルになっているステラポラリスの美しい雄姿を見ることができる。

日本では、帆で走る小型の船がヨットと呼ばれるが、欧米では、一般的に宿泊施設を備え、エンジンで走る豪華客船を指す。またオランダ語で元来は、(海賊を追う)快速追跡船を意味する。一回り小規模ではあるが、宿泊施設のある行楽用モーターボートをキャビン・クルーザー、さらに小型で、船外エンジンのモーターボートはアウト・ボード・モーターと称されているのである。

その後、一九八四年のある日、堤義明さんにお会いしたとき、堤さんから「あの船が順調に運営できるようになってきましたよ」とのご報告をいただき、堤さんにご迷惑をおかけすることにならなくて良かった、と安心したのであるが、私としては、ステラポラリスには今でも自分の子供のような愛着を抱いている。

榊原君は欧州に出張中、発病され、彼岸に旅立たれてしまったが、今でも彼の数々の思い出が目に浮かんでくる。あの若さで、彼岸に旅立たせるには惜しい青年であった。

​黒川紀章設計事務所によるデザイン
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​世界海事遺産ステラポラリスと
世界文化遺産富士山
​日本初のフローティングホテル

欧州の週末

 

シュツットガルトでベンツ社と打ち合わせをしているとき、週末を利用してオランダのアムステルダムを訪ねてみたいと思った。人一倍写真に熱中していたこともあり、チューリップを撮る絶好のチャンスではなかろうかと心を弾ませた。キュウケンホッフはチューリップの名所で見渡す限りがチューリップの花畑であると、話だけは数多くの人々から聞いていたが、それまでは一度も目にしたことがなかった。オランダと日本とは医学上の交流が一番古いともいわれていたので、この週末はうれしい時であった。

シュツットガルトからオランダ航空(KLM)の飛行機に乗り一時間も経つと、アムステルダムの地上の風景がよく見えてきた。太陽の光でぴかっと光るものが無数にあるが、いったい何であろうとスチュワーデスさんに聞いたところ、温室です。と教えられた。

飛行機は次第に下降し、着陸も近い頃、機内放送できれいな音楽が流れてきた。オヤ!と気が付けば、日本の「赤とんぼ」の曲であった。側にいたスチュワーデスさんに「いったいどうしてオランダ航空がアムステルダムに近づく直前に日本の音楽を流すのですか」と聞くと、「いえ、これはオランダの音楽です」との返事。「そんなことはないですよ。これは日本の『赤とんぼ』という曲ですよ。」二人は飛行機が地上に着くまで、「オランダの」、「日本だ」、いや「オランダ」、「日本」を繰り返し、苦笑したことが今でも記憶に残っている。

飛行機はスキボール空港に安着した。見るからにスマートな空港だと最高の第一印象を受けた。何でも、世界中の旅行者に「愛すべき空港はどこか」とのアンケートを取ったところ、このスキボール空港が第1位で第2位が新シンガポール空港であったそうである。

この世界第一位で人々に愛されるスキボール空港は海面下十三メートルに位置しているとのこと。オランダの西半分はほとんど海面下に位置しており、開拓によって少しずつ国土を広げてきたそうだが、それは神戸や東京湾の埋め立てなど陸地を拡大している日本の姿と全くよく似ていると思われる。

日本では見られない風車が、このオランダには実に多い。アメリカのニューヨークはもともとニューアムステルダムと名付けられていたという。オランダを代表するかのごとく美しく咲いているチューリップは、トルコが原産地であり、トルコの砂漠地帯に咲く自然野生種が砂を多く含んでいるオランダの土にうまくマッチしたものとの事である。その後、毎年改良され、今では何千という種類のチューリップがあるそうである。チューリップはオランダの大産業で、輸出、または観光に欠かすことはできない重要物資になっている。

静かに縦横に流れる運河が町をより美しく形作っていた。私の宿泊したホテルオークラの玄関の直ぐ横の運河も旅人の心を和らげてくれていたのであった。

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​フローティングホテルスカンジナビアの最初のカタログの中に榊原さんの苦労話が書かれております。

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